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(H16.8.7更新)
(H16.6.16更新) 生人形は、幕末から明治にかけて、大阪の難波新地(なんばしんち、現在の中央区千日前周辺)や江戸(東京)の浅草などの見世物興行に出された細工物のひとつで、まるで生きているかのような人形です。生人形師たちは、人間の動きや表情をさまざまな主題にのせて迫真の写実性をもって再現し、生人形は激動の時代を生きる市井の人々の感情や欲望を反映、表現してきました。 この展覧会では、天才生人形師とうたわれる松本喜三郎の作品を軸に、彼と競い合った安本亀八(やすもとかめはち)、さらには二人の後に続いた優れた生人形師たちの国内・海外に残された作品や関連資料を通じて、見世物であるが故に近代の歴史のなかに忘れ去られていった生人形の諸相を紹介します。また、この展覧会は、希代の名工・松本喜三郎の作品が一堂に会する初の展覧会となります。 熊本出身の松本喜三郎 (1825〜1891) は、嘉永7年 (1854) に大坂の難波新地で初めて「生人形」を掲げる人形師としてデビューし、その後、江戸浅草でも人気を博して出世街道を走ります。彼の一世一代の大作「西国三十三所観音霊験記(さいごくさんじゅうさんしょかんのんれいげんき)」(33場74体の人形)は大評判で、浅草で4年のロングラン興行、大阪では明治12年 (1879) に千日前で興行され、3ヵ月で約60万人の人々が見物したといいます。 民衆に受け入れられた生人形は、喜三郎の出発点が出身地・熊本の地蔵祭りに出される造り物であったように、あくまで土着の造り物に始まる職人芸術であり、仏教彫刻の伝統や、西洋芸術の美意識や技法に立脚するものではありませんでした。 一方で、生人形はその技術の高さを買われて、甲冑類のマネキンや、人間の代わりとなる人類学資料(標本)として海外に持ち出され、博覧会などにも登場し、全盛時にはさまざまな展開をみせます。しかし、大衆の関心は移ろい、流行の変化とともに、明治の後半以降、生人形は忘れ去られ、一部を残して歴史の表舞台から姿を消していきました。 本展は、彫刻とも人形とも言い切れない「生人形」が発する民衆の魂の叫びに耳を傾けつつ、ヨーロッパやアメリカとの交流の視点を交えて、明治以降に生まれた「美術」という概念から排除された「生人形」を文化史的に位置づけていこうとするものです。 ※この展示は終了いたしました。 |
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