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ペルシャ文明展-煌めく7000年の至宝-
(H25.10.3更新)
領土 年表1 年表2 出品作の出土地

II.ペルシャの帝国文明

イラン高原に発したアケメネス朝の領土は、アフリカの一部からインダス地方に及ぶ広大なものとなった。以前の国家や民族はこの帝国の一部となった。交通網が整備され、各地の産物、人材、情報が領土内を流通し始めると、帝国の文明は非常に国際的なものとなった。王宮の建設や工芸品の製作のため、遠くの資材と専門職人が集められた。イランの伝統にエジプト、メソポタミア、中央アジアなどの意匠が加わり、古代オリエント文明の諸伝統はペルシャの宮廷様式として結実した。

同じ頃、ライバルのギリシャ美術は、オリエントの影響を残すアルカイック期から、かたちとは内なる生命そのものの姿とするクラシック期へと発展を遂げた。ギリシャとペルシャは常なる「冷戦」、時々「熱戦」、戦争は異文化交流の一種で、両者は互いに影響も及ぼしあった。この対立拮抗(きっこう)は、マケドニア王アレクサンドロスの東征によって終わった。ペルシャは滅亡し(前330年)、ギリシャ本土から、軍団とともに文化がオリエントに押し寄せ定着した。しかしオリエント文明の伝統は易々と消し去られるほど脆弱(ぜいじゃく)ではない。やがて東西の文化は融合し、新しい文化・文明が生まれた。

パルティア、ササン朝はペルシャ側の巻き返し。新たな帝国は新たなライバル=ローマ帝国と冷・熱戦を続け、したがって交流も深めた。極東と地中海を陸海で結ぶ東西交易路「絹の道」が開かれたのはこの時代、それは奈良の都まで続いていた。


II-1. 「世界の中心」ペルセポリスの栄光-宮殿の装飾と工芸品

ペルセポリスを訪れる者は、大基壇の上に築かれた壮麗な建物群に圧倒される。遺跡となった現在でもそうなのだから、古代にこの地を訪れた人々の感動はさらに大きかっただろう。特にアパダーナと呼ばれる謁見(えっけん)用の建物は巨大な柱に支えられた大建築物であった。柱の最上部には有翼の人面牡牛像などで飾られた柱頭が据えられ、地上の人々を見下ろしていた。当時は天井近くにある柱頭装飾の細部を見ることは不可能であったろう。

アパダーナの壁には、帝国支配下の諸民族が朝貢(ちょうこう)に訪れた様子が浮彫で表現されており、ここに帝国内の富が集められていたことを示している。ペルセポリスは重要な宗教行事が執り行われた都で、ここでは新年を祝う大祭が催され、帝国各地の属州の特産品がアケメネス朝の帝王に献上された。新年祭の参加者は「万国の門」をくぐり、「アパダーナ(謁見の間)」で特産品を献上した後、「百柱の間」に通されて、大宴会に加わったのだろう。この宴会には、現在博物館として復元されている後宮(こうきゅう)の住人たちも参加していたかもしれない。そして献上された品々は、最奥部の宝物庫に納められていたことだろう。

ダレイオス1世の銀製定礎碑文

ダレイオス1世の銀製定礎碑文

Silver foundation plaque of Darius I

アケメネス朝
ファールス州ペルセポリス出土

高-32.5 幅-33.0 厚-0.2
©National Museum of Iran

ペルセポリスのアパダーナ(謁見の間)の東南隅の土台の下に埋納されていた定礎碑文。この作品は銀製だが、もう一枚黄金製のものが出土した。両者とも数枚の貨幣と共に石の箱に入れられていた。碑文は古代ペルシャ語、エラム語、バビロニア語を楔形(くさびがた)文字で記したもの。ダレイオス1世がアケメネスの末裔(まつえい)であること、支配地域が「スグダ(ソグディアナ)の向こうのサカ族より……クーシャ(エチオピア)にいたり、ヒンドゥより……スパルダ(サルディス)」に及ぶこと、そしてアフラ・マズダー神への崇拝が記されている。


光環(フワルナ)を持つアフラ・マズダー神

光環(フワルナ)を持つアフラ・マズダー神

God Ahura Mazda

アケメネス朝
ファールス州ペルセポリス出土
石灰岩
高-69.5 幅-33.0
©National Museum of Iran

ペルセポリスの壁を飾った浮彫の一部。フワルナ(光環)を握るアフラ・マズダー神と考えられている。ペルセポリスの壁面にはこのような有翼円盤付きの神像が多く見られるが、アケメネス朝の初期にはアフラ・マズダーの像は描かれなかったとする考えもあり、先祖霊フラワフルである可能性も指摘されている。


朝貢者の浮彫:ソグド人

朝貢者の浮彫:ソグド人

Sogdian tributary

アケメネス朝
ファールス州ペルセポリス出土
石灰岩
高-48.0 幅-35.0
©National Museum of Iran

アルタクセルクセス1世の宮殿で発見されたと伝えられる浮彫。蓋付きの容器を持ったソグド人朝貢者が表現されている。前449年、アルタクセルクセス1世はギリシャと平和条約を結び、ダレイオス1世から続いたギリシャとの戦争を一段落させた。また太陽暦であるゾロアスター暦を採用した王としても知られる。



II-2. 黄金の煌めき-アケメネス朝ペルシャの華麗な工芸品

アケメネス朝ペルシャの美術は、エジプトやアッシリア、ギリシャなどの様式を取り入れ、威厳に満ちた独自の宮廷様式として完成された。各種の工芸品が製作されたが、特に金・銀製品はハマダーン(エクバタナ、メディアの中心地)で多数の傑作が見つかっている。工芸の技術は分野によってそれぞれ専門の工人が知られており、金細工はメディア人が最も得意とする技術だった。

美術工芸品で最も好まれたモチーフはライオンであり、眼の下に涙形の皺(しわ)が巧みに刻まれているのがこの時代の特徴。ライオンの体に翼が付き、頭に角(つの)を生やした怪獣(ライオン型グリフィン)もしばしば使用された。

文様としては、円花状のロゼット文、睡蓮を側面から表現したロータス文、棗椰子(なつめやし)の木を図案化したパルメット文が繰り返し使用された。アフガニスタン産のラピスラズリ製の工芸品もこの時期に傑作が多い。またガラス器もこの時期に宮廷用の飲食器として使用され始めたようだ。

有翼ライオンの黄金のリュトン

有翼ライオンの黄金のリュトン

Gold rhyton of a winged lion

アケメネス朝
伝ハマダーン州出土

高-22.3 径-12.8 重-892.0g
©National Museum of Iran

リュトンとは「流れる」を意味するギリシャ語から派生した名称で、角形の本体に動物や人頭形の下部が付けられた酒器。通常下部に小さな注口があり、そこから注がれた葡萄酒をフィアラ杯で受けて飲む。この作品はアケメネス朝の代表的モチーフである「有翼ライオン」(ライオン形グリフィン)の前駆が付けられたリュトン。特に眼の下に表現された涙形の皺は、アケメネス朝のライオン図像の特徴で、ライオンはアケメネス朝王家の紋章的な存在と考えられている。この作品のように胴部が直角に曲がるリュトンはアケメネス朝の様式。後のパルティア時代の作品は、もっと細長く、ゆるやかに湾曲したものになる。ラッパ状に開いた本体には横畝文(よこうねもん)が打ち出され、口縁部には、東地中海地方からの影響と考えられるロータス(睡蓮)文が連続して表される。アケメネス朝の工芸品を代表する傑作。


黄金の短剣

黄金の短剣

Gold dagger

アケメネス朝
伝ハマダーン州出土

長-41.3 幅-10.5 重-817.0g
©National Museum of Iran

柄頭にはライオンの頭部、鍔(つば)部には野生山羊が、それぞれ背中合わせに表現されている。イランはアルメニアやアフガニスタンなどの金の産地に近接しているため、多くの金製品が製作された。この作品はアケメネス朝を代表する工芸品の一つだが、実用の武器からはほど遠い威信財。


銀製アンフォラ

銀製アンフォラ

Silver amphora

アケメネス朝
ハマダーン州出土(?)

高-24.3 径-13.7
©National Museum of Iran

外見は両把手の付いた貯蔵用の器「アンフォラ」だが、底部には2つの注口があり、ここから内部の液体を注ぎ出していたことがわかる。すなわち、この作品の使用法はリュトンのそれであり、「アンフォラ形リュトン」と呼ぶこともできる。このようなアンフォラ形リュトンはペルセポリスの浮彫に表現されているばかりでなく、土製のものも存在することから、アケメネス朝時代に比較的一般的な容器であったと推定される。



II-3. アレクサンドロス大王以後-パルティア時代の美術と工芸

歴史的な大東征によってペルシャ帝国を滅ぼしたマケドニア王アレクサンドロス大王は、前323年にバビロンで病死した。後継者争いの末、イランは大王の将軍であったセレウコス1世(ニカトール)の開いたヘレニズム国家、セレウコス朝シリアによって支配され、この地にギリシャ本土からの文化が移植された。前250年頃東方で興ったイラン系のアルサケス朝パルティアはヘレニズム文化を受容したので、ギリシャ風の建築や美術工芸品は領土の各地で見られるが、イラン高原ではあまり多くない。

ギリシャ的な要素は次第にペルシャ的な要素と融合し、グレコ・イラン式と呼ばれる彫刻様式が生まれた。パルティア後期(1~3世紀)になると、正面から見られることを意識した、パルティア様式と呼ばれる独特なスタイルが誕生した。陶器やガラス器は、地中海の新勢力ローマの美術・工芸から影響を受けているが、独自の器としてリュトンが好まれ、多く製作された。アケメネス朝時代のリュトンより、長細くなだらかに湾曲する形に変化している。

ヘラクレスと王侯の浮彫

ヘラクレスと王侯の浮彫

Relief of Hercules and a prince

パルティア期
フーゼスターン州出土
石灰岩
高-36.0 幅-27.1
©National Museum of Iran

2人の男性を正面向きで表した浮彫。右側の人物はギリシャの英雄(神)ヘラクレス(イランでは勝利の神ウルスラグナと習合)で、武器である棍棒(こんぼう)をさげている。左の人物はギリシャ風の衣装を身に着けた王侯で、この構図は自己の神格化を図ったもの。神を人の姿で表すというギリシャ美術の特徴がイランに伝えられ、それを正面描写というパルティア美術の枠組みで構成している。


緑釉鉢

緑釉鉢

Green-glazed bowl

パルティア期
フーゼスターン州スーサ出土
陶器
高-13.6 径-16.0
©National Museum of Iran

丸底、球形の胴部が口縁部付近でややくびれ、2段式の口縁部が大きく開く鉢。肩部に型押しによる格子目様の文様が施される。器形はアケメネス朝から存在する伝統的なものだが、緑釉の技術はおそらくローマの影響によるもの。



II-4. シルクロードと正倉院への道-ササン朝ペルシャのガラス器と銀器

ササン朝ペルシャの美術や文化は、シルクロードを経て唐時代の中国へ伝えられた。「胡風(こふう)」つまりペルシャ・スタイルは、唐の美術に大きな影響を与えた。国際都市長安では、エキゾチックな瑠璃(るり)碗(切子ガラス碗)、長杯、胡瓶(こへい)(水差し)が愛好され、胡楽(こがく)(イラン系ソグド音楽)の聞こえる巷では、胡姫(こき)(イラン系ソグド女性)が胡酒(こしゅ)(ワイン)を勧める酒房が繁盛した。しかし現在の中国には胡風文物はあまり残っていない。

ところが日本では、奈良・東大寺の正倉院に多くの工芸品が伝来する。天平勝宝8(756)年に、光明皇后が夫聖武天皇の七七忌に奉献した天皇遺愛の宝物である。中でも白瑠璃碗は明らかにイラン製で、ササン朝の工芸品がはるばる日本まで到達していたこと、さらにそれが千年以上も時を超えて、校倉(あぜくら)の中に丁重に保管されてきたことに驚かされる。おかげで、破損を免れ、土中に埋もれて変質することもなく、天平文化の国際性を当時そのままに伝えている。

ガラス製品と並んでササン朝美術を代表するのは、銀製の皿であろうか。帝王狩猟図や謁見図、動物文を内部に描き、部分的に鍍金を施した華やかな器は、やはり中国の工芸、そして日本の貴族社会に大きな影響を及ぼした。

壁の装飾浮彫

Relief of a boar head

ササン朝
セムナーン州テペ・ヒッサール出土
ストゥッコ
高-38.0 幅-38.0
©National Museum of Iran

建物の壁を飾っていたストゥッコ製の飾り板。型造りによる。穴あき連珠文の中に猪の頭部側面が表現されている。猪はササン朝の帝王による狩猟図でしばしば描かれる獲物の一つ。同種の作品はササン朝ペルシャの首都であったメソポタミアのクテシフォンでも発見され、そこでは猪の他に熊や孔雀などを表した方形ストゥッコ板も見られる。これらのストゥッコ装飾は6世紀のもので、ササン朝後期の作品。


鍍金銀製帝王狩猟文皿

鍍金銀製帝王狩猟文皿

Gilt silver plate with royal hunting scene

ササン朝
イラン北部出土

高-4.4 径-20.6
©National Museum of Iran

馬に乗ったササン朝の帝王がライオン、熊、猪を捕獲する様が銀盤に打ち出し技法によって表現されている。他の西アジアの事例同様、王のたしなむ狩猟とは一種の宗教儀礼であった。ササン朝ペルシャには王専用の「狩猟園」が各地にあり、そこにはこの作品に描かれた獲物をはじめ、駝鳥、野ロバ、羚羊、虎などが飼われていた。


円形切子碗

円形切子碗

Cut glass bowl

ササン朝
イラン北西部出土
ガラス
高-8.6 径-11.2
©National Museum of Iran

切子装飾を施したガラス製容器は、ササン朝ペルシャ時代を代表する国際的ヒット商品。古くは色鮮やかで透明度の低いガラス器が地中海地方を中心に宝石の一種として珍重されたが、紀元前後になると、「ローマ・ガラス」と呼ばれる吹きガラスの容器が安価な容器として普及した。しかしササン朝時代の職人たちは、宝石のカットと同じ技法を用いて、再び高価な容器を作り出した。この作品は、型吹きによって厚手の碗を作り、外表面にグラインダーによる研磨を施して円形の窪みを作り出したもの。隣り合う円が重なりあって亀甲(きっこう)模様のようになっている。同タイプのガラス器は、当時の東西交渉路、シルクロードを経て東方にも伝わり、中国や日本の古墳で出土するほか、奈良・東大寺正倉院宝物の中にも見られる。


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