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NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」
(H25.10.1更新)

主な展示資料

プロローグ 篤姫のふるさと薩摩さつま

 天保6年(1835)12月19日、江戸からおよそ440里離れた薩摩藩さつまはんで、一人の女の子が誕生した。於一おかつ、後の篤姫あつひめ天璋院てんしょういん)である。
 篤姫の実家は、重富しげとみ(越前)家・加治木かじき家・垂水たるみず家と並ぶ薩摩藩主島津家の一門いちもんのひとつ今和泉いまいずみ島津家。将軍家でいえば御三家ごさんけにあたり、薩摩藩士の最上位に位置した。
 篤姫が19歳まで過ごした薩摩藩は、関ヶ原合戦で敗退したにも関わらず 本領ほんりょう安堵あんどされた石高こくだか72万8千石余りの西国の大藩。琉球りゅうきゅう国を含む南北1200キロにもおよぶ長大な領地と海を守っていた。
 島津家は、鎌倉時代から続く名家。初代忠久が近衛家このえけ家司けいしであったことから両家の関係は深く、篤姫の婚姻にも近衛家が大きな役割を果たした。また、鎌倉・室町時代に流行した犬追物いぬおうものや、鎌倉流規式故実きしきこじつなど伝統的な文化を守り続けた家でもあり、その一方で、幕末に海外の情報・文化をいち早く取り入れ、鋳砲ちゅうほう・造船にとどまらず、産業の育成や社会基盤の整備など幅広い分野にわたる事業を展開し、日本の近代化をリードした。この集成館事業では、薩摩切子きりこ の製造や薩摩焼の改良なども実施され、数々の美術工芸品も生まれている。篤姫の幼少期は、薩摩藩が財政改革を乗り越え、新しい時代に向けて大きく華開く時期でもあった。
 本章では、篤姫のふるさと薩摩について概観する。篤姫を育んだ薩摩の息吹に触れていただきたい。

桜島遠望図 柳田龍雪筆

桜島遠望図 柳田龍雪筆
さくらじまえんぼうず やなぎだりゅうせつひつ

三幅対
江戸時代末期~明治時代初期 19世紀
紙本着色 縦78.5 横143.0cm
鹿児島・尚古集成館

 篤姫と同時代の画家であり、島津 斉彬なりあきらに仕えた後、文久元年(1861)に薩摩奥絵師として召し抱えられた柳田やなぎだ龍雪りゅうせつが、桜島さくらじまや島津家の別邸もあった霧島きりしま栄之尾えいのおを描いた三幅対。篤姫が持参したと伝えられる薩州桜島真景図も同じ作者である。(展示期間:5/14-6/1)

薩摩切子 紫色ちろり

薩摩切子 紫色 さつまきりこ むらさきいろ ちろり

一合
江戸時代末期~明治時代初期 19世紀
高16.4 長径16.2cm
東京・サントリー美術館

 ちろりとは酒を注ぐ容器の呼称。胴体の両側面に円形の紫色のガラスを融着させ、六角籠目かごめを刻んでいる。蓋、胴体の無色部分は七宝しっぽうつなぎもんが施され、胴体に三ヶ所突出部を融着し、すずの金具を覆せて繋ぎ合わせるという高度な技術を用いた薩摩切子の名品である。

第一章 御台所みだいどころへの道のり

 将軍の正室を御台所みだいどころという。御台所は、宮家・五摂家ごせっけから迎えることが通例であり、篤姫のように外様とざま大名の分家からの輿入こしいれは特異なことであった。
 嘉永3年(1850)、徳川家祥いえさき(のちの家定いえさだ)の継室けいしつ選びが始まると、島津斉彬なりあきらのもとに縁組みの話が持ち込まれた。先例となったのは、薩摩藩主島津重豪しげひでの娘で、11代将軍家斉いえなりの御台所となった広大院こうだいいん。島津家に嫁いだ5代将軍綱吉つなよしの養女竹姫の遺言により成就したものであった。
 この頃、アヘン戦争を契機に植民地化の危機を痛感し始めた国内の識者たちは、近代化を急務と考えていた。薩摩藩は、早くから英仏艦の通商要求を受けており、他藩に先駆けて近代化事業に着手した。縁組みによる将軍家との関係強化が藩政にも有利になると考えた斉彬は、分家の娘である於一おかつに白羽の矢をたて、養子とし(幕府への届出は実子)、名を篤姫と改めた。
 篤姫が、江戸に上ったのはペリーが来航した二ヶ月後のこと。以後、国内情勢は刻々と変化し、婚姻は困難を極めた。安政3年(1856)、ようやく婚姻が内定すると、出自を整えるため五摂家筆頭の近衛家このえけの養女となり、名を敬子すみこと改める。御台所までの道のりはあまりに長く、その後も篤姫の人生は激動の波に翻弄ほんろうされ続けることとなる。
 本章では、篤姫の御台所への道のりを国内情勢や世界情勢とからめながら概観する。篤姫の生きた時代についても想いを馳せていただきたい。

伝竹姫所用 雛道具(三葉葵牡丹紋七宝繋蒔絵) 御膳一揃

伝竹姫所用 雛道具(三葉葵牡丹紋七宝繋蒔絵) 御膳一揃
でんたけひめしょよう ひなどうぐ(みつばあおいぼたんもんしっぽうつなぎまきえ) ごぜんひとそろえ

一式
江戸時代 18世紀
鹿児島・尚古集成館

 享保14年(1729)、5代将軍徳川 綱吉つなよしの養女竹姫たけひめ(1705~72)が、22代島津継豊つぐとよのもとに輿入れした際に持参したと伝わる雛道具。徳川家の家紋である三つ葉葵紋と島津家の家紋の一つ牡丹紋があしらわれている。

昇平丸絵図

昇平丸絵図
しょうへいまるえず

二枚
江戸時代後期 19世紀
紙本淡彩 縦37.5 横54.5cm
松平文庫(福井県立図書館保管)

 昇平丸は薩摩藩が建造した日本最初の洋式軍艦である。欧米の海軍に対抗すべく、洋式軍艦の必要性を感じていた斉彬なりあきら は、大船建造の禁を布く幕府と交渉し、その許可を得た。安政元年(1854)桜島瀬戸村の造船所で進水し、翌年江戸に廻航、幕府に献上された。(展示期間:4/19-5/12)

第二章 婚礼~将軍家定いえさだ敬子すみこ

  安政3年(1856)12月18日、近衛このえ忠煕ただひろの養女となり敬子すみこと名を改めた篤姫が将軍家に嫁いだ。22歳であった。渋谷の薩摩藩邸から江戸城に運び込まれた婚礼調度は、藩をあげて準備した豪華な品々であったという。まさに一世一代の輿入こしいれである。
 敬子の夫となったのは、13代将軍徳川家定いえさだ。敬子の前に二人の正室を亡くしている。家定自身については、早くから政治的能力が疑問視され、継嗣けいしの誕生も危ぶまれていた。家定に関する史料は乏しくその実像は明らかではないが、二人の間にも子どもの誕生はなかった。
 国内が外交問題に揺れ、将軍継嗣問題が熱を帯びるようになると、敬子もその渦に巻き込まれていく。年齢や政治能力を重視した一橋ひとつばし派が推していたのが一橋慶喜よしのぶ。従来の血筋を重視した紀伊派が推していたのが徳川慶福よしとみ(のちの家茂いえもち)であった。敬子の実家薩摩藩は一橋派であり、大奥工作を敬子に期待した。しかし、井伊いい直弼なおすけが大老に就任すると継嗣は徳川慶福に決定し、敬子が力を発揮することはなかった。そのわずか数ヶ月後、安政5年7月6日に家定が亡くなり、さらに十日後、敬子が精神的に支えにしていた薩摩藩主島津斉彬なりあきらも急死した。こうして、一年七ヶ月の短い結婚生活は幕を閉じた。
 本章では、将軍の武器武具や敬子の婚礼調度から婚礼の様子まで探り、継嗣問題に関する文書史料を通じて、政治の渦に巻き込まれていく敬子の姿を検証する。

徳川家定画像

徳川家定画像とくがわいえさだがぞう

一幅
江戸時代 19世紀
紙本着色 縦88.4 横51.6cm
東京・德川記念財団

 13代将軍家定の画像。薄墨で表されたひげの跡が目につくが、家定の特徴を捉えたものであろうか。繧繝縁うんげんべりの上畳に坐す姿は、容姿、束帯をはじめ、平緒、太刀まで詳細に描かれ、本画とも見える完成度にあるが、料紙に紙継ぎがあるため、狩野派御用絵師のうかがい下絵したえの可能性が高い。

天璋院所用 薩州桜島真景図

天璋院所用 薩州桜島真景図
てんしょういんしょよう さっしゅうさくらじましんけいず

一幅
江戸時代 19世紀
絹本着色 縦117.5 横41.1cm
東京・德川記念財団

 薩摩藩の御用絵師である柳田龍雪が描いた桜島を望んだ絵。篤姫が江戸に旅立つおり、養父斉彬が故郷の想い出のために、磯にある別邸からの眺望を描かせたのだろうか。画面右下に「柳田拓梁齋」の落款がある。(展示期間:4/19-5/12)
天璋院所用 薩摩切子 藍色栓付酒瓶

天璋院所用 薩摩切子 藍色栓付酒瓶
てんしょういんしょよう さつまきりこ あいいろせんつきさかびん

一対
江戸時代 19世紀
総高30.0 胴径8.0cm
東京・德川記念財団

 篤姫(天璋院)輿入れの際、島津斉彬なりあきらが用意し持参させたと思われる薩摩切子。側面に亀甲文様とストロベリー=ダイヤモンド文様を刻んだ淡い藍色せの本酒瓶は、大正10年(1921)、袖ヶ崎島津邸で開かれた薩摩硝子陳列会に「公爵徳川家達いえさと殿蔵」として出品された。(展示期間:4/19-5/12)

第三章 江戸城大奥

 婚礼からわずか一年半、家定いえさだは死去し、敬子すみこ落飾らくしょくして天璋院てんしょういんと号した。御台所みだいどころとしての生活に幕を下ろした天璋院であったが、安息の日は訪れない。若き将軍家茂いえもちの養母として、また大奥の総取締りとして、引き続き重責を担うこととなる。
 文久2年(1862)、家茂の正室として皇女和宮かずのみや入輿にゅうよした。冷え切った朝幕ちょうばく関係を修復しようとする、いわゆる公武合体こうぶがったいのための降嫁こうかであった。この時天璋院28歳、家茂・和宮は17歳であった。天璋院は若き二人の後見人的立場であったが、当初和宮との関係は微妙なものであった。朝廷の威光を示さなければならない和宮の立場や、京・江戸の御風違いに起因するお付き女中同士の反目はんもく等が、二人が歩み寄ることの障壁しょうへきとなったのである。
 しかし、聡明な両者は徳川家の置かれた危機的状況も手伝ってか、時を重ねるごとに歩み寄り、激動期の江戸城大奥で三千人とも言われる女性たちを束ねた。
 本章では、天璋院の装束・手回り品を中心に和宮所用の品も展示する。雅な品々を通して、大奥での日常や二人の姿に想いをせていただきたい。

天璋院画像 川村清雄筆

天璋院画像 川村清雄筆
てんしょういんがぞう かわむらきよおひつ

一面
明治17年(1884)
板絵油彩 縦53.5 横37.5cm
東京・德川記念財団

 徳川家に依頼されて歴代将軍の画像制作を手がけた旧幕臣川村清雄(1852~1934)が、晩年の天璋院を正面から捉えた肖像画。将軍御台所の風格をそなえ欣然と坐すその姿を見事に描写している。天璋院逝去の翌年に完成した。(展示期間:4/19-5/12)

天璋院所用 小袖(萌黄縮緬地雪持竹雀文様牡丹紋付)
てんしょういんしょよう こそで(もえぎちりめんじゆきもちたけすずめもんようぼたんもんつき)

天璋院所用 小袖(萌黄縮緬地雪持竹雀文様牡丹紋付)

一領
江戸時代 19世紀
丈175.0 裄61.0cm
東京・德川記念財団

 蝶と藤襷ふじだすき を織りだした萌黄の紋縮緬地の腰から下に、雪が積もった竹林と飛び交う雀を刺繍した小袖。竹林の黒糸と雪の白糸の色の組み合わせが、明快な印象を与える。天璋院の人柄を偲ばせるような、凛々しくもすっきりとした意匠である。近衛家の牡丹紋を後身頃に三ヶ所、前身頃に二ヶ所、金糸駒繍で表している。
(展示期間:4/19-5/1)

和宮所用 十種香道具(黒塗桜花唐草蒔絵)

和宮所用 十種香道具(黒塗桜花唐草蒔絵)
かずのみやしょよう じしゅこうどうぐ(くろぬりおうかからくさまきえ)

一具
江戸時代末期 19世紀
高19.6 縦22.2 横17.8cm
東京都江戸東京博物館 (88206045,8829040~60)

 香を組み合わせてたき、それを聞きわけて当否を競う「香合せ」の道具一式を収めた箱。香道具は近世初期に婚礼調度に組み込まれた。本道具は葉菊紋や葵紋が施されていないが、ほかの和宮調度と伝来を同じくしている。
(展示期間:4/19-5/12)

第四章 幕府瓦解がかい ~徳川家存続への思い~

 幕末の動乱の中、将軍家茂いえもち挙国一致きょこくいっちして時局にあたるため三度に渡り上洛じょうらくする。天璋院てんしょういんはその間、和宮かずのみやとともに将軍不在の江戸城を預かる事実上のあるじであった。
 家茂は慶応2年(1866)7月、大坂で陣没じんぼつする。替わった十五代将軍慶喜よしのぶは幕府権力の強化をうかがうが、雄藩ゆうはん連合政権を目論む天璋院の実家薩摩藩と激しく対立。徳川家の理解者であった孝明こうめい天皇の急死も重なりその対立は次第に修復不能となり、大政奉還たいせいほうかん王政復古おうせいふっこの大号令等を経て、世上は一気に倒幕とうばくへと傾斜する。
 慶応4年1月、鳥羽伏見とばふしみの戦いを皮切りに戊辰ぼしん戦争が始まった。緒戦しょせんに敗れた旧幕府軍は雪崩なだれを打って敗走。また慶喜も戦場を離脱して江戸へ退き、戦争の大勢は決した。
 自らの実家である薩摩藩が主力となった軍勢が江戸へ進撃するという悲劇的状況の中、天璋院は徳川家存続のため一貫して毅然きぜんとした態度をとる。同年3月11日、新政府軍が江戸周辺に続々と集結する中、その隊長へ宛て一命をして御家存続を願う嘆願書が差し出されるのであった。
 本章では、最幕末の政治情勢を徳川家を軸に検証し、それに対する天璋院の動向を明らかにする。自らの信念に従って行動する天璋院の姿に触れていただきたい。

徳川家茂画像

徳川家茂画像とくがわいえもちがぞう

一幅 江戸時代 19世紀
紙本淡彩 縦88.5 横52.3cm
東京・德川記念財団

 江戸幕府14代将軍。安政の将軍継嗣問題では家定や大奥が推戴し、紀州藩主から数え13歳で将軍宣下を受けた。公武一和を実現するため、3代家光以来約230年ぶりに将軍上洛を果たす。本画像は、家茂死後に狩野派の絵師によって描かれたうかがい下絵したえである。(展示期間:4/19-5/12)

天璋院書状 官軍隊長宛(写本)

天璋院書状 官軍隊長宛(写本)
てんしょういんしょじょう かんぐんたいちょうあて(しゃほん)

一冊 原本 慶応4年(1868)3月
紙本墨書 縦27.0 横20.0cm
東京大学史料編纂所

 天璋院が実家の薩摩藩に向けて徳川家の家名存続を嘆願した書状。使者は慶応4年3月11日に発せられたと考えられる。慶喜と徳川宗家を分離して考えることで宗家を守ろうとし、朝廷への取り成しを依頼している。静寛院宮の嘆願書と基本線は一致している。 (展示期間:4/19-5/15)

エピローグ 明治の天璋院

 慶応4年(1868)4月10日、天璋院てんしょういんは江戸城を出た。無念の思いの天璋院であったが、その後嘆願書に込められた願いは通じ、円安竜之助たやすかめのすけ(のちの徳川家達いえさと)に徳川宗家そうけの相続が認められ、駿河するが府中70万石が与えられた。徳川家存続の重責を果たしたのである。
 天璋院はその後住居を転々とし、生活も以前に比べ質素なものとなりながらも、旧幕臣きゅうばくしんの精神的後見役として徳川家を支えていく。また、まだ幼い家達の養育には特に力を注ぎ、徳川家の行く末に確かな道筋を築いた。明治15年(1882)、その家達が結婚する。天璋院の計らいにより、自らの実家にあたる近衛家このえけとの婚姻となった。翌明治16年、自らの役割を全うし、安堵あんどしたかのように天璋院は生涯を終えた。
 その翌年、新たに華族制度が制定され、家達は最高位の公爵こうしゃく叙任じょにんされた。天璋院の想いは実を結び、徳川家の社会的地位が公的に保証されたのである。
 本章では、江戸城開城後の天璋院の姿をたどり、彼女が一命を賭して願った徳川家の存続・発展の過程を概観する。

天璋院所用 道服(薄紫地筥牡丹紋紗裳付)

天璋院所用 道服(薄紫地筥牡丹紋紗裳付)
てんしょういんしょよう どうふく(うすむらさきじはこぼたんもんうすぎぬもつき)

一領 江戸~明治時代 19世紀
丈120.0cm
東京・德川記念財団

 天璋院が着用した夏用の道服。道服は、公家や上位の武家の人々が出家した時に用いた。13代将軍家定は安政5年(1858)に亡くなっているので、その後作られたのであろう。(展示期間:4/19-5/12)

天璋院葬送之図

天璋院葬送之図てんしょういんそうそうのず

一巻 明治時代 19世紀
紙本着色 縦32.0 横70.5cm
東京・德川記念財団

 天璋院はかねてより療養中の中風が悪化し、明治16年(1883)11月20日、49歳の生涯を閉じた。特旨を以て従三位に復せられ、12月5日喪主家達により葬送の式が執り行われた。千駄ヶ谷邸より出棺し、多くの会葬者に見送られ上野東叡山寛永寺の家定の墓側に埋葬された。法号は「天璋院従三位敬順貞静大姉」。
(展示期間:4/19-5/12)

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