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大阪府・大阪市指定文化財展-大阪の祈り さまざまな美と形-
(H25.10.1更新)

主な展示資料

祈りの像

人間が生きるに際して生ずる不安や恐怖、さらに人間の存在そのものを考えようとする営みや、体制などをふくめた現象を宗教という。
 人類史的に見ると、狩猟採集経済社会では自然現象それ自体が祈りの対象であり、目に見えたり、触れられるようなモノを祈りの対象とすることは少ない。狩猟採集経済の段階から進んだ社会においては、人間の力を超えたモノ(呪物)や、人格的な精霊が宿ると考えられるモノ(霊物)など、具体的なモノへの祈りが盛んになる。
 私たちの生活に馴染み深い仏教やキリスト教は、教義や体制の整った高度に完成した宗教であり、人間の形態をもった像に対する祈りが行われる。

銅造菩薩立像

銅造菩薩立像
どうぞうぼさつりゅうぞう

大阪府指定文化財
1躯
像高19.9cm・総高26.2cm
壺井寺つぼいでら(柏原市)
白鳳時代(7世紀後半)

 左手に螺旋らせん状の持物をささげ、右手は垂下して天衣をつまみ、ほぼ直立の姿勢で蓮華座れんげざに立つ菩薩像。頭部には大きな宝髻ほうけいを結い童子形をとり、足先は小さい。三面頭飾の正面には勢至菩薩せいしぼさつの標識である華瓶けびょうをあらわす。側面の頭飾から伸びる垂紐は膝まで達する。体部は裸形だが、胸飾と捻りを加えた瓔珞ようらくを左右対称にまとい、瓔珞の花形飾から大きな垂飾を付けて華麗に装飾している。天衣は滑らかに翻り、蓮肉上で柔らかな折り目をみせる。台座は複弁の反花をもつ蓮華座で、框は八角形で間に雲形を配する。面相や体躯の表現に軟らかさが認められ、白鳳時代の特徴を備えた菩薩像である。
 地上に落ちて悪さをした雷を井戸に封じ込めて懲らしめた伝説があり、地元では「避雷ひらい観音」と呼ばれている。

木造阿弥陀如来立像

木造阿弥陀如来立像
もくぞうあみだにょらいりゅうぞう

大阪市指定文化財
1躯
像高82.5cm
大圓寺だいえんじ(大阪市住吉区)
鎌倉時代(13世紀初頭)

 大圓寺の本尊で、寄木造よせぎづくりの玉眼嵌入像である。平安時代後期以降、浄土教の隆盛に伴い、阿弥陀如来の来迎らいごうの様子をあらわした彫像や画像が多く制作された。中でも像高約3尺程度の立像の作例は多い。鎌倉時代を代表する仏師である快慶かいけいも阿弥陀如来立像を手がけ、後の時代の規範となる様式を完成させた。本像の足ホゾには「巧匠 法橋快慶 アン(梵字)」という墨書銘があり、法橋ほうきょうとあることから、快慶が法橋位にあった建仁3年(1203)から承元4年(1210)の間の制作とわかる。この時期は快慶の活動の中期にあたるが、残されている作例は少ない。理知的な表情や写実的で流れるような衣文は快慶の特色をよく示している。また、前期の簡潔な作風と比べると、衣文の処理に若干の装飾性が加味されており、様式的な完成度を高めつつあることがうかがえる。

快慶(生没年不詳)
鎌倉時代前期の仏師。運慶(?~1223)と時を同じくして活躍。快慶の名は、寿永2年(1183)に運慶が願主となって書写された『法華経』(真正極楽寺=真如堂 国宝)に初めて見える。建久3年(1192)頃から「安阿弥陀仏」と号す。建仁3年(1203)11月、法橋に叙せられ、承元2年(1208)から承元4年(1210)までに法眼位に昇り、貞応2年(1223)まで活躍がたどれる。運慶とならんで奈良時代の古典や中国の同時代の中国宋の芸術に学びながら、鎌倉彫刻様式の完成に貢献した。運慶は量感を備えた力強い表現であるのに対して、快慶はにぎやかでよく整理された絵画的表現が特徴である。快慶の作風「安阿弥様」と呼ばれ、後世に影響を与えた。
法橋
僧に授与された位階のひとつ。貞観6年(864)、僧綱の位階として、法印大和尚位・法眼和上位・法橋上人位を制し、それぞれ僧正・僧都・律師の階位とした。法印・法眼・法橋の僧位は僧綱(僧官)の位階として官位相当の原則であったが、次第にくずれ、僧綱員でないものにも叙せられたり、成功じょうごうによる叙位や死後の贈位などが行われたりした。

厨子入象牙彫キリスト磔刑像

厨子入象牙彫ずしいりぞうげぼりキリスト磔刑像たっけいぞう

大阪府指定文化財
1躯
厨子高38.6cm
個人
桃山時代(16世紀後半)

 厨子は、何の装飾もほどこされていない黒漆塗りのもので、高さ38.6cm、間口18.2cm、奥行外側7cm、内側6cmを測る。観音開きにした扉は、銀の金具でとりつけてある。
厨子の中には「ユダヤ人の王ナザレのイエス」の略字、I・N・R・Iの4文字を刻んだ罪標のついた黒檀製の十字架に、総長13.3cmを測る象牙彫キリスト像をはりつけたものが納めてある。
 十字架のとりつけてある台は、ゴルゴタ山を思わせる半円形の黒檀製のもので、小さな洞窟がかたどられて、中に象牙彫の頭蓋骨と肢骨が2本納められている。
 このキリスト像は、喉元や、手首、足首に血痕があらわされており、見るからに凄愴な感に充ちている写実的な優秀な作品であり、おそらく高山右近たかやまうこん(1552~1615)が高槻城主であった頃(1573~85)、外国の宣教師によってもたらされたものであろうと考えられている。昭和8年(1933)10月31日付で、旧法により国の重要美術品に認定されていた。


木造不動明王坐像

木造不動明王坐像
もくぞうふどうみょうおうざぞう

大阪府指定文化財
1躯
像高33.5cm
千手寺せんじゅうじ(東大阪市)
湛海たんかい
江戸時代(17世紀末~18世紀初頭)

 寄木造よせぎづくり、彩色、玉眼ぎょくがん。両眼を見開き、上歯で下唇を噛んでおり、通形の湛海像とは異なる面貌を示している。本来仏身は赤褐色に塗られていたようで、真っ赤な火焔状の光背とともに強烈な印象を与える。像底に4.4cm×4.1cm、深さ10.5cmの角穴をあけ、中に灰仏を納入している。
 灰仏は高さ4.2cm、幅2.2cmレリーフで、背面に「十万枚護摩灰造之 宝山」の刻印があり、宝山(湛海)の手になることが明らかである。

祈りの絵画

 人々は宗教の教えや教義を絵画として表現した。
 仏教における曼荼羅は、悟りの世界を表現するために、諸仏や神々を一定の方式に基づいて配列し描いたものである。信仰の対象を絵画に表し、これに祈りをささげることもした。高僧の画像などがそれである。また、歴史上優れた36人の歌人を描くことが鎌倉時代以降盛行した。室町時代中期以降になると36人を扁額に描き社寺へ奉納することも行われた。キリスト教におけるマリア十五玄義図は「キリスト一代絵物語」というべきもので、わが国におけるキリスト教導入期の状況を知る上でも、日本人の手による初期洋風画としても貴重なものである。

絹本著色星曼荼羅図

絹本著色星曼荼羅図
けんぽんちゃくしょくほしまんだらず

大阪府指定文化財
1幅
縦131.1cm 横86.5cm
本館(前田維氏収集 前田善衛氏寄贈)
南北朝時代(14世紀)

 北斗曼荼羅とも称される本図は、密教において延命や除災を祈願する法会である北斗法の本尊として用いられた。
 北斗曼荼羅は天空にある星宿を表現し、本図は三つの区画からなる。中央の区画である第一院には、日輪の中で白蓮華座上にある釈迦如来を描く。その周りに北斗七星と九曜星-太陽や月、惑星など-を尊像として円形の中に描く。次の区画、第二院には十二星座を表す十二宮、最も外の第三院には二十八星座を示す二十八宿の姿が円形内に描かれる。北斗曼荼羅の多くは、仏教観による宇宙の中心である須弥山(しゅみせん)を中央に描くが、本図には描かれない。また本図の絵絹裏面には梵字などが記されており大きな特徴となっている。
 北斗曼荼羅は、区画が方形と円形の2種類に大別される。前者には久米田寺本(平安時代)、後者には法隆寺本(平安時代)などがあり、密教の流派による違いとも言われる。
 本図は京都東寺宝菩提ほうぼだい院の旧蔵になり、戦前の調査では表装の裏に「奉開眼供養 康応元年己巳五月廿二日 権律師源圓」と書かれた紙片があったと報告される。それによれば康応元年(1389)頃の制作となるが、現在この紙片は失われている。

紙本著色マリア十五玄義図

紙本著色しほんちゃくしょくマリア十五玄義図じゅうごげんぎず

大阪府指定文化財
1幅
縦81.6cm 横64.8cm
個人(茨木市立文化財資料館保管)
江戸時代(1622年以降)

 この絵画は、大正9年(1920)9月26日に千提寺せんだいじの東家の「あけずの櫃」から発見された日本人の手になる貴重な初期洋風画である。この作品が「マリア十五玄義図」と呼ばれるのは、中央上段にイエスを抱くマリア像、その下段にイエズス会の開祖、イグナチウス・ロヨラとフランシスコ・ザビエル、その周囲に「喜びの玄義」・「悲しみの玄義」・「栄福の玄義」の三部門を五事ずつ配して「キリストの一代絵物語」としている点にある。上段と下段の区切り目のところには「いとも尊き秘蹟、讃仰せられよ」との言葉がポルトガル語で綴られており、また下端部のロヨラとザビエルの名前のいずれにも「S.P.」(SANCTUS PATER)の略語が冠されているので、「聖父」として列聖された1622年以降の作品と考えられている。昭和8年(1933)10月31日付で旧法により国の重要美術品に認定されていたが、現在は大阪府指定有形文化財となっている。初期キリシタンの信仰諸相を明らかにしていく上で貴重な絵画である。
三十六歌仙扁額

三十六歌仙扁額
さんじゅうろっかせんへんがく

大阪府指定文化財
36面
縦51.5cm 横41cm
波太神社はたじんじゃ(阪南市)
江戸時代(17世紀末~18世紀初)

 特に優れた歌人を歌仙といい、古くは紀貫之きのつらゆきが選んだ六歌仙がある。三十六歌仙は、公家の藤原公任きんとう(966~1041)が選んだと伝えられる。
 三十六歌仙の図は、平安時代末以降盛んに描かれ、当初は絵巻物として作られた。「佐竹本」「上畳本」が代表的な作例であり、その背景には歌合の流行や似絵(肖像画の一手法)の興隆があるという。
和歌は神仏をなぐさめるとして、室町時代中期以降は扁額にして奉納することが盛んに行われた。
 本扁額の画面上部には二種類の色紙形のなかに和歌が記され、その下には畳に座った歌仙の姿が描かれる。濃彩で細やかな文様の衣装をまとう姿で描かれた歌仙は、金箔の背景と相まって華麗な作風を見せる。柿本人麿かきのもとのひとまろ中務なかつかさの2面に「土佐従五位下刑部権大輔藤原光成筆」との落款らっかんがあり、江戸時代前期の絵師土佐光成とさみつなり(1647~1710)の作と分かる。光成は、禁裏御絵師きんりおんえしを務め、衰微していた土佐家を中興した光起みつおきの子。元禄9年(1696)、本図落款に記された位と職に任じられており、それ以降の制作になる。流麗な筆致の和歌の筆者は明記されず不明。
 本図を所蔵する波太神社は、延喜式にも名があげられる古社で、河内国日根郡鳥取郷の惣社。(写真は「柿本人麻呂」)

落款
書画などで作品が完成したとき、作者自身がみずからその作品に自己の作品であることを示すとともに姓名・字号・年月または干支・あとがき(跋語)などを記入しmまたは雅号の印を捺すること。落成約款の略。

祈りの品々

 祈りという行為の中でさまざまなモノが用いられた。
 水稲農耕を中心とした弥生式文化で用いられた銅鐸。弥生人の、実りへの願いが創り出したものが銅鐸である。キリスト教の儀式、正餐式で用いるパンを入れた聖餅箱は、わが国の工芸の美が世界で認められた一例である。キリシタン墓碑、キリシタン墓地から発見された青磁香炉の優品、神に捧げた刀剣類、江戸時代以降盛んになる西国巡礼に関連する資料などから、多様な祈りと、それにまつわる品々をご覧頂きたい。

木造狛犬

木造狛犬

大阪府指定文化財
1対
獅子(阿形:向かって右側) 像高50cm 幅32cm
狛犬(うん形:向かって左側) 像高50cm 幅33.5cm
小山田元宮保存会(河内長野市)
延元5年(1340)

 かつて小山田町に鎮座した小山田元宮に安置されていた獅子と狛犬。顔を横に向けて威嚇し、背を反らせて胸を張り、前肢先を手前に引いて踏ん張る。向かって右の獅子(阿形)は耳が垂れ、尾の先端を丸める。左の狛犬(吽形)は頭上に一角があり、耳を立て、尾は真っすぐ上方にのびる。両方とも顔周りにタテガミが広がり、頬から下顎にかけてヒゲを植え込んだ小穴が残る。タテガミや体部に金彩や緑青・胡粉の彩色がよく残る。躍動的な筋肉や肢先の造形は、抽象動物であるにもかかわらず現実感のある迫真の表現で、鎌倉時代以来の写実表現が見られる。
  像底に「延元五年五月廿七日」の墨書があるが、削り直した部分に書かれており、当初のものではない。当初の墨書は削り残された肢裏の鑿跡部分に残る。書き直した墨書が当初の内容を引き写したのであれば、年代のわかる基準作である。

墨書 阿形

吽形
「延元五  小山田  宮  五  月  廿七」
「□□山」
「小山田」
「延元五辰戊  小山田宮  五月廿七日」
「□□田」


イエズス会紋章入七宝繋蒔絵螺鈿聖餅箱

イエズス会紋章入七宝繋蒔絵螺鈿聖餅箱もんしょういりつたまきえらでんせいへいはこ

大阪府指定文化財
1合
器高9.7cm 径11.5cm
北村芳郎(南蛮文化館 大阪市北区)
桃山時代(16世紀末~17世紀初頭)

 ミサに用いるオスチャ(聖餅)を入れる円筒形の容器で、器全体が蒔絵と青貝の螺鈿技法により美しく仕上げられている。昭和41年(1966)にポルトガルのリスボンより里帰りした作品で、合口造り、懸子付きの聖餅箱である。
 蓋の表面にはイエズス会の紋章である十字架とIHSの三文字と三本釘とが美しい魚紋交じりで意匠され、周囲には放射光、また蓋と身の側面には青貝を七宝繋紋にちりばめたみごとなキリシタン工芸品のひとつである。
 上記の「イエズス会紋章入蔦蒔絵螺鈿聖餅箱」が日本の国内信者向けの聖餅箱であったのに対し、本品は外国向けの輸出用品であり、またデザイン的にも特徴のあり、貴重である。

平成18・19年度大阪市指定文化財(一部)のご紹介

銅造菩薩立像

桑津遺跡出土木簡
くわづいせきしゅつどもっかん

大阪市(大阪市文化財協会保管)
有形文化財
考古資料
1枚(長21.6cm 幅4.0cm)
東住吉区桑津三丁目(出土地)
飛鳥時代

 桑津遺跡から出土した7世紀前半の呪符木簡で、国内で出土したものとしては最古のである。片面には「日」字をT字形に繋いだ「符(たけかんむりに録)」、その下に「文(欠ヵ)田里」と読める三文字があり、少しおいて二行にわたって「道意白加之/募之乎」の文字がある。もう一面には「各家客等之」と書かれている。釈読については、「白加之」の部分を「由加之(ゆかし)」、「各家客等之」の「客等之」の部分を「皮皮等之(ははとし)」と読む一字一音表記で書かれているとする意見があるなど、文字表記の歴史を考える上からも、道教にかかわる民間信仰の源流を示す資料であるということからも貴重な資料である。

木造阿弥陀如来立像

山本發次郎蒐集やまもとはつじろうしゅうしゅうによる佐伯祐三さえきゆうぞう作品

大阪市(大阪市立近代美術館建設準備室保管)
有形文化財
美術工芸品(絵画)
一括(42点)
北区中之島一丁目3-20
明治時代

  佐伯祐三は明治31年(1898)、現在の大阪市北区にある寺院に生まれた。東京美術学校卒業後フランスに渡り、ブラマンクやユトリロの影響を受け独自の絵画世界を形成した。作風はフォーヴィズム(野獣派)に属するものであるが、それに留まるものではなく、透明な色彩感覚や鋭い感性に裏打ちされた黒の線描、都会的な詩的感性などを重ね合わせたあくまで佐伯独自のものである。山本發次郎は文化芸術を愛する洗練された大阪商人であり、芸術の理解と鑑賞にもに個性がなくてはならぬとした。「蒐集もまた創作なり」という自論をもち、鑑賞体験を重ねた結果の研ぎ澄まされたコレクターの目で佐伯作品を発掘した。共に大阪の近代美術史において特筆されるものといえよう。(写真は「郵便配達夫ゆうびんはいたつふ半身はんしん)」)

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