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  5. 第62回式年遷宮記念 伊勢神宮と神々の美術

新淀川100年 水都大阪と淀川
(H25.9.26更新)

学芸員が語る展示の見どころ

62回目の式年遷宮を記念して催される今回の特別展では、伊勢神宮の神宝に加え、国宝10点、重要文化財35点を含むさまざまな資料が展示されます。ここでは考古学・美術工芸・民俗などを専門とする大阪歴史博物館の学芸員が、展示資料の見所や歴史的背景などを語ります。

  1. 海の正倉院、沖ノ島
  2. 沖ノ島に供えられた土器
  3. 22年ぶりの、そして初公開の・・・
  4. 極楽往生への願い-三重県伊勢市朝熊山経塚群-
  5. 国宝 金銅高機をめぐって

1.海の正倉院、沖ノ島
沖ノ島の位置
■沖ノ島の位置

沖ノ島は福岡県宗像市から約60km北西に位置する、玄界灘に浮かぶ小島である。東西1km、南北500mと小さいものの、急斜面が多く、標高がもっとも高いところで240mもある。まさに玄界灘の上で天を突くような孤島なのである。近寄りがたい雰囲気がある一方で、非常に目立つ存在であることから、海を活動の舞台とする者にとっては、目印となったことであろう。

上空から見た沖ノ島
■上空から見た沖ノ島

この沖ノ島には、今も信仰の対象となっている沖津宮があるのに加え、その周辺では多くの祭祀の跡が見つかっていて、それが航海の安全を祈ったものであることは想像にかたくない。祭祀は4世紀後半ごろに始まり、6世紀までは銅鏡・馬具・鉄製工具などの古墳によく副葬されている物が奉納されている。一方、7世紀以降は人形や馬形・船形といった金属製や滑石製の模造品、金属製の容器など、律令祭祀に通じるものが奉納されている。この変化は当時の祭祀の流行なのであろうが、さらに言うならば、各時代でもっとも祈りを込めることができるものが反映されているといえる。なお、大規模な祭祀は10世紀前半で終わるようである。これはちょうど遣唐使が廃止された時期にあたる。

沖津宮(沖ノ島の中にある神社)
■沖津宮(沖ノ島の中にある神社)

今回の特別展では、沖ノ島で出土した金属雛形紡織具や金銅雛型五弦琴、金銅高機や、土師器・須恵器が出品されている。これらは7~8世紀の、まさに古墳祭祀から律令祭祀への転換期に当たる。伊勢神宮の式年遷宮が文献に登場するもの7世紀末ごろであることから、伊勢の古神宝と沖ノ島の祭祀遺物に共通点があるのも納得できる。これらが同じ展示室に並ぶまたとない機会である。是非ごらんいただきたい。

(当館学芸員 寺井誠)

2.沖ノ島の土器
土師器甕(上)と須恵器器台
■土師器甕(上)と須恵器器台

今回の特別展では沖ノ島5号遺跡で出土した土師器の甕と須恵器の器台が展示されている。国家祭祀のために奉納されたのであろうが、考古学を専門としている者にとっては、土器そのものをじっくり観察するのは楽しいものである。

まず、土器の特徴を観察してみよう。まず、須恵器の器台、窯で密閉して焼かれたため、非常に硬くできあがっている。色は酸素がまわらなかったため、灰色である。上の縁に見られる円形の色が変わった部分は、窯で別の須恵器と重ねて焼いた痕跡である。特徴は上下が開いた円筒状の器形と、ヘラで描かれた人物と思われる絵画。器形に関しては、類例は見当たらないので、朝鮮半島にあるのではと調べてはみたものの、類例は見つからなかった。沖ノ島ではこのような器台がいくつも出ていることから、やはり、従来から言われているように祭祀用の特注品なのであろうか。

一方、上にのっている土師器甕、野焼きで焼かれたため、酸素がよくまわり、粘土に含まれる鉄分が酸化することによって橙色を呈する。高さは15.4cm、口の直径(口径)は15.5cmある。表面には土器を叩き締めて作った際のタタキメが残っている。また、内側を見てみると、短い太い平行の直線文が見られる。これは溝を刻んだ木の道具を内側から当てて、叩きを受けた痕跡である。このような技法で作られる土師器は福岡では「玄界灘式製塩土器」と呼ばれる。煎熬せんごうという、海水を煮詰めて、塩を取り出すために使われるものである。

発掘調査報告書によると、5号祭祀遺跡ではこのようなセットが少なくとも3セット見つかっている。古代の貴重品である塩を神に捧げる様子が想像できる。

(当館学芸員 寺井誠)

3.22年ぶりの、そして初公開の・・・
伊勢参詣曼荼羅(左幅)
■伊勢参詣曼荼羅(左幅)

今回の特別展の話題の一つに、「伊勢参詣曼荼羅」現存4件すべてが展示される、ということがある。同時に4件が並ぶことはないのだが、会期中に全件が揃う予定となっている。ただ、この4件のうち3件は22年前すでに、当館の前身にあたる大阪市立博物館で展示され(かつもう1件も参考図版として図録に掲載されている)ていて、これらの3作品は実に22年ぶりに当館で再会した、ということになる。

その、22年前の展覧会「社寺参詣曼荼羅-絵は誘う 霊場のにぎわい-」(昭和62年)は、社寺参詣曼荼羅という作品群をまとまった形で紹介したはじめての展覧会であり、その図録はその後の参詣曼荼羅展の基礎資料となっている。図録は早くに完売しているが、当館図書コーナー「なにわ歴史塾」で閲覧できるのでぜひごらんありたい。

伊勢参詣曼荼羅(左幅、部分)
■伊勢参詣曼荼羅(左幅、部分)

さて参詣曼荼羅とは不思議な絵で、一般的には、鑑賞用というより霊験奇譚を布教する「絵解き」という語りを伴うことを前提に描かれた絵画とされ、特にその初期には巡礼という宗教性を強く帯びたものであるが、元禄を過ぎるころには宗教性が薄らぎ名所絵的な要素もふくまれるようになっていく。参詣曼荼羅という群の中でも、垂迹曼荼羅の系統、縁起絵の系統、名所絵の系統、といった諸要素を細かく見極めながら作品成立の背景を見ていく必要があるのだろう。伊勢の場合、当然宗教性は強いものがあろうが、いうまでもなく江戸時代後期のおかげ参り隆盛に見られるような、名所としての存在感もある。

宇治橋の下で橋銭を拾おうとする人物などは、「伊勢参詣」という宗教行為の本題からは離れた存在でありながら、4件総ての作品に登場しており、一種の典型となっている。このような点を見ると、近世初期風俗画の影響が指摘されていることも、なるほどと思えるのである。

(当館学芸員 内藤直子)

※参考文献
  • 『社寺参詣曼荼羅 ―絵は誘う霊場のにぎわい―』展図録(昭和62年、大阪市立博物館)
  • 『中世庶民信仰の絵画 ―参詣曼荼羅・地獄絵・お伽草子」(平成5年、渋谷区立松濤美術館)

4.極楽往生への願い-三重県伊勢市朝熊山経塚群-
朝熊山経塚群の遠景(白点線が経塚群の位置)
■朝熊山経塚群の遠景(白点線が経塚群の位置)

伊勢神宮の東に位置する朝熊山あさまやまにある金剛証寺は、天長二年(825)に弘法大師によって創建されたと伝えられる寺で、江戸時代には神宮参拝者は金剛証寺に詣でることが常であったといわれるほど、伊勢神宮と深い関わりを持つ寺院である。

この寺の背後にある経ヶ峯と呼ばれる山頂一帯に、朝熊山経塚群は広がっている。その発見は古く、江戸時代からその遺物が発見されていたようであるが、大々的な調査が行われたのは昭和35年、伊勢湾台風の翌年のことであった。今回出品している銅製経筒などが、台風で土砂が押し流されたあとから発見されたのである。台風の数ヶ月前に現地に赴いていた仏教考古学者石田茂作は、翌年の昭和35年に経筒発見の知らせを聞き再び訪れるが、その様子を「去年夏見た鬱蒼たる美林は台風のために無慙に倒れ禿山同然」と記すほど、激しい被害にあったようだ(石田茂作「伊勢朝熊山経塚」『仏教考古学論攷』三 1977年)

調査風景(昭和38年)
■調査風景(昭和38年)

経塚とは、仏教経典を埋納する施設で、その成立には弥勒信仰が強く働いていた。平安時代中期頃、世は釈尊入滅後の末法と呼ばれる時代に入ったと考えられており釈尊入滅より56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまで経典を地中に埋めて保存しようとしたことが経塚造営の動機であったと考えられている。したがって、各地で見つかる経塚は山間や寺院・神社の裏などに築かれることが多い。また、同時期に起こった浄土思想の普及とも相まって、極楽往生を願う作善さぜんとしても機能していくようになった。

今回展示している作品に平治元年(1159)に書写された経巻(観普賢経)がある。これは同じく「平治元年」の銘を持つ経筒に納められており、平安時代後期の往生思想盛行期のものであることがわかる。さらに、経筒・経巻と一緒に、阿弥陀三尊来迎図の線刻された銅鏡が2面、阿弥陀像を線刻した銅鏡が2面の計4面が陶製外容器に納められていた。観普賢経は法華経の結経とされ、極楽往生するための懺悔の方法を述べた教典と言われている。阿弥陀如来は極楽浄土に住むと考えられた仏であり、これらの遺物から、本経塚が極楽浄土への往生を祈願したものとみなせるだろう。日本における経塚造営の一面を象徴している例として重要である。

さらに興味深いのは、納められていた経巻の奥書には、「平治元年八月十四日雅彦尊霊 為出離生死往生極楽書写了」とあることだろう。この「雅彦」が伊勢神宮外宮の禰宜度会雅彦(1135-1159)と考えられており、伊勢神宮の神官(あるいはその縁者)が仏教信仰に傾倒していたことを窺わせ、神仏習合のあり方を考える上でも貴重な例となっている。

(当館学芸員 加藤俊吾)

※写真はいずれも石田茂作監修『新版仏教考古学講座』第六巻 雄山閣(1977)より転載

5.国宝 金銅高機をめぐって
金銅高機
■金銅高機

これは宗像市沖ノ島祭祀遺跡出土と伝えられるもので、1961年6月30日付で、銅鏡・金銅香炉状製品・滑石模造品・銅盤とともに一括して国の文化財に指定された。時代は奈良時代・8世紀と紹介されている。この織機のミニチュアは、細部にわたってたいへん精巧に作られており、じっくりと時間をかけて観察する価値がある。以下、民俗資料を担当する学芸員として、これまであまり取り上げられていない側面から、この資料について少し述べてみたい。

まずその前に、この資料の指定名称について、誤解を解いておかなければならない。指定時の名称では「高機」となっており、今もその名称が踏襲されている。しかし、織機の形式は明らかに「高機」ではなく、「地機」と呼ばれるものである。この点については、染織や民具の研究者の間では周知の事実とされてきた。

さて、日本在来の地機を広く調査した角山幸洋氏によれば、地機の形式は東と西で大きく二分されるという(『日本染織発達史』田畑書店、1968年)。東北および北陸の一部、関東の一部に見られるのが「垂直型」とされるもので、中部から近畿そして広く西日本に見られるのが「傾斜型」とされるものである。今回展示している地機のミニチュアは、西日本に広く分布する機台が傾いた「傾斜型」にあたる。祭祀遺跡からの出土品と在来の民俗資料とを直接比較することには難しさもあるが、この地機のミニチュアの形式は民俗資料として残存する地機の全国的な分布傾向と矛盾するものではないといえる。

つぎにもうひとつ指摘したいことは、この地機のミニチュアには少なくとも必要な部品が一点欠けているという点である。それは「腰当」というもので、織り上がった布を巻き取る「布巻具」を体に固定するためのものである。腰当は一般的には板または布でできているが、それがこのミニチュアには見当たらないのである。

最後に地機のミニチュアを復元するうえでの課題である。織手が座る板を「腰掛板」と呼ぶが、このミニチュアの復元では傾斜した機台にそのまま固定されている。そのため腰掛板も後方に傾いたかたちとなり、ここに織手が座ると、そのままでは後ろに倒れてしまうため、意識して体を前傾姿勢にしなくてはならない。これは大変疲れる作業姿勢だと思われる。そうした点を考えると、腰掛板を機台に直接固定するのではなく、板の短辺の片方を、機台後方の脚部上部の突き出た部分に据え置き、板全体がほぼ水平になるようにして座る方が楽な作業姿勢となる。民俗資料として残存する事例では、そのような取り付け方が確認されるものもあり、復元する場合のひとつの考え方としてはあり得るのではなかろうか。

(当館学芸員 伊藤廣之)


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