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  5. 発掘された日本列島2010/(同時開催)なにわの考古学30年の軌跡-足の下に眠る歴史-

新淀川100年 水都大阪と淀川
(H25.9.26更新)

展示の見どころ

1.なにわを歩いたナウマンゾウ
写真1:ナウマンゾウの臼歯の破片
■写真1:ナウマンゾウの臼歯の破片

まず、写真1をご覧ください。木の皮のようなこの物体は、約4万年前まで生息していたとされるナウマンゾウの臼歯の破片で、今回の特別展で展示しています。長原遺跡(大阪市平野区)の発掘調査で約10万年前の地層から出土しました。化石は大阪市内では本例を含めて数例しかありませんが、長原遺跡や山之内遺跡(大阪市住吉区)などでは大地を踏みしめた足跡がたくさん見つかっています。足跡の長さが30~40㎝あり、残りのよいものは爪の痕跡まで見えます。

写真2:無数に残る足跡
■写真2:無数に残る足跡

また、写真2は住吉区の山之内遺跡で見つかった川のほとりに残る無数の足跡で、ナウマンゾウだけでなく、オオツノジカのものもあります。さらに、地層の堆積状況や自然環境や気候などを示す花粉や種子の分析で得られた研究成果をもとに、約11万年前の風景が洋画家の山下裕子氏によって描かれています(写真3)。


写真3:11万年前の山之内遺跡の風景(山下裕子氏による復元図)
■写真3:11万年前の山之内遺跡の風景(山下裕子氏による復元図)

なお、ナウマンゾウは4~5万年前に急激に減少し、絶滅したと考えられています。これとちょうど入れ替わるように日本列島では旧石器時代の遺跡が増加します。大阪でもっとも古い旧石器が3万5千年前ですから、ひょっとするとどこかにハンターの痕跡が残っているのかもしれませんが、まだ発見されていません。人類の痕跡がどこまでさかのぼるのか、ナウマンゾウとの接点があるのかどうかということを解き明かすことが、今後の発掘調査・研究の課題となります。

(当館学芸員 寺井)

2.河内湾のほとりで-縄文時代の森の宮遺跡の発掘調査から-
写真1:森の宮遺跡で見つかった貝塚
■写真1:森の宮遺跡で見つかった貝塚

昔は、大阪歴史博物館や大阪城のあたりに海がせまっていた、という話はよく耳にすると思いますが、発掘調査の成果は、「そこに海があったんやなあ」と実感させてくれます。JR環状線の森ノ宮駅を降りて、坂をのぼりはじめた駅の西側あたりが森の宮遺跡(中央区)で、標高が低くなる東側には「河内湾」と呼ばれた海がありました。

写真2:縄を巻き付けた石の錘
■写真2:縄を巻き付けた石の錘

まず、海を実感させてくれるのが今から30数年前の発掘調査で見つかった貝塚です(写真1)。ここでは縄文時代後期(約4,000年前)の地層ではカキなどの海で生息する貝類で、縄文時代晩期(約3,000年前)ではセタシジミなど淡水で生息する貝類で構成されます。これは縄文時代晩期には河内湾が淡水化して「河内湖」になったことを示しています。また、写真2は10kg前後ある石で、縄が巻かれています。船の碇かもしくは漁網の錘に使われたのでしょう。

写真3:マイルカ(左)・イノシシ(手前)・シカの骨
■写真3:マイルカ(左)・イノシシ(手前)・シカの骨

イルカやクジラのような海の哺乳類の骨が遺跡から出土することも、海を感じさせてくれます。写真3の左側の骨はイルカの頭蓋骨で、縄文時代後期の地層から発見されました。湾に入ってきたイルカが捕獲されたのでしょうか。また、イノシシやシカの骨も出土していることは、森の宮遺跡の住人が陸の恵みも受けていたことを示します。

ひとむかし前なら、森の宮の東側は標高が低く、くぼんでいることが分かったので、かつては海や湖があったことを想像できたかもしれません。しかし、今では都市化が進んで、高層建物が林立していて、それが難しくなりつつあります。今回の特別展では、海(もしくは湖)のほとりで暮らした森の宮の住人が残した道具(土器や碇石)や食べて捨てた骨などを展示しています。展示を通じて、かつてそこに海があった風景を想像してみませんか。

(当館学芸員 寺井)

3.銅鐸「再発見」
写真1:平野出土の銅鐸(京都国立博物館所蔵)
■写真1:平野区出土の銅鐸
(京都国立博物館所蔵)

弥生時代をもっとも代表する遺物のひとつに銅鐸がありますが、弥生時代の遺跡が数多く調査されている大阪市内では一度も発掘で出土したことがありません。しかし、江戸時代の記録には銅鐸が出た記録が2例あります。ひとつは北区長柄西で出土したとされる銅鐸で、今は米国ボストン美術館が所蔵しています。もうひとつはここで紹介する平野区で出土したという銅鐸です(写真1)。

写真2:『品目上書』に描かれた銅鐸の絵(三上幸男氏所蔵)
■写真2:『品目上書』に描かれた銅鐸の絵
(三上幸男氏所蔵)

平野銅鐸発見の経緯は、『品目上書(三上家文書)』という古文書に記されています。それによると、明和年間(1764~72)に平野七名家のひとつである三上氏の敷地(今の平野区平野市町あたり)で井戸を掘っていたところ発見され、文書には詳細な模写もあります(写真2)。この発見を喜んだ三上氏が当時の著名な儒学者である片山北海(1723~90)に漢詩を詠むことを依頼し、銅鐸の表面に書いたと記録されています。しかしその後、この銅鐸は紆余曲折を経て、どこにいったのかわからなくなってしまいました。

写真3:銅鐸に朱書された漢詩(京都国立博物館所蔵)
■写真3:銅鐸に朱書された漢詩
(京都国立博物館所蔵)

さて、この古文書に大阪市史編纂所(当時)の前田豊邦氏は強く関心を持ち、銅鐸の実物をつきとめようと、精力的に調査を進めました。1991年の秋頃、京都国立博物館で調査をしていると、鈕の割れ方が古文書の絵とよく似ている銅鐸が目に留まりました。よく見てみると、次のような朱書がありました(写真3)。

隠顕有時用舎有数遺響可嗣 弗蝕弗蠧古色曄々神之攸護珎之蔵之亦豈不過

天明壬寅 冬十二月 北海片猷書

なんと、片山北海が詠んだ漢詩が書かれていたのです。そのとき前田氏は手が震え、心臓の鼓動を感じたといいます。長く行方不明であった平野銅鐸の「再発見」の瞬間です。

大阪市内におけるここ30年あまりの発掘調査の蓄積は目を見張るものがあり、その成果は今回の特別展でも多く紹介しています。ただ、本格的な発掘調査が行われる以前の時期に発見・採集された資料の中にも、大阪市の歴史を語る上で欠かせないものもあります。江戸時代に「発見」され、前田豊邦氏によって「再発見」されたこの銅鐸もそのひとつです。銅鐸は大阪市出身ではありながら、大阪市では初公開です。この機会にぜひご覧ください。

(当館学芸員 寺井)

4.瀬戸内地方の石器製作技術でつくられた石器群
-群馬県渋川市・上白井西伊熊遺跡-
接合によって復原された原石(瀬戸内技法)
■接合によって復原された原石
(瀬戸内技法)
/群馬県埋蔵文化財調査事業団

今回の列島展で一番古い時代の資料がこの上白井西伊熊遺跡で見つかった石器接合資料です。時代は後期旧石器時代の後半期にあたり、約2万年~1.8万年前の頃のものです。その頃の日本列島は、気温の低い氷期とやや暖かい間氷期が交互にやってきていました。使っていた石器ではナイフ形石器と呼ばれるタイプのものが列島各地で製作・使用され、その地域ごとの特徴が現れ始めた時代でもありました。

上白井西伊熊遺跡で見つかった石器群は、それらを接合していくと、原石(石器を作り出す最初の素材)まで復原できました。これによって石器の製作技術がわかり、その結果、近畿地方を代表する石器製作技術-瀬戸内技法で作られたものであることがわかりました。瀬戸内技法で作られた資料は日本海側に多く関東地方の遺跡で、近畿地方の製作技術で作られた石器群は九州から東北地方まで広がっていましたが、多くは日本海沿岸で見つかっています。関東地方では少ないこの石器群が見つかったということで、旧石器時代の人の移動を解明する鍵となる遺跡になることは間違いなさそうです。

(当館学芸員 加藤)

5.第一次大戦中の捕虜となったドイツ兵収容所
-徳島県鳴門市・板東俘虜収容所跡-
開所当時の板東俘虜収容所
■開所当時の板東俘虜収容所
/鳴門市教育委員会

少し前までは、“考古学”と聞くと、原始・古代の遺跡・遺物をイメージされる方が多かったのではないでしょうか?でも最近では、江戸時代などの近世はもちろん、幕末・明治の遺跡が発掘調査される場合も決して珍しくなくなっています。そこで、今回の展示から板東俘虜収容所跡を取り上げてみましょう。

板東俘虜収容所は、第一次世界大戦(1914~1918)中、俘虜(捕虜)となったドイツ兵を収容していた施設でした。 当時の日本は、三国協商(英・仏・露、後に米が加わって連合国と総称)体制下にあって、日英同盟を結んでいたことから連合国側として三国同盟(独・墺匈・伊)との戦争に参加しました。中国の青島にあったドイツ軍施設を占拠、その結果、約4700名のドイツ兵が日本国内の施設に収容されました。そのひとつが板東俘虜収容所で、1917年に新設、1920年までの三年間で約1000人の捕虜が暮らしていたと言われています。

製パン所内のパン焼き窯
■製パン所内のパン焼き窯
/鳴門市教育委員会

発掘調査でみつかった施設のひとつに、パン焼き窯がありました。これは、当初日本人が設置した窯が故障が多かったため、ドイツ人自ら設計・製作した窯だったそうです。また、日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が全曲演奏されたとも言われ、その暮らしぶりが窺えます。

ところで、大阪にも俘虜収容所と呼ばれる施設がありました。大阪市大正区にあり、1914年から1917年までのことでした。この施設には、のちに製菓会社の「ユーハイム」を創設するカール・ユーハイムなどもいたそうです。

(当館学芸員 加藤)

6.キトラ古墳と高松塚古墳
壁画除去前のキトラ古墳石室内
■壁画除去前のキトラ古墳石室内
/文化庁

奈良県明日香村に存在するキトラ古墳。2001年に石室(墓に葬られた人の埋置された部屋)内の調査が行われ、その内部が明らかになると、日本国内で脚光を浴びました。なぜなら、石室の壁や天井に彩色画が残っていたからです。東西南北の壁には四神(それぞれの方角をまもるとされる神聖な獣)と十二支像、天井には天文図が描かれていました。

同じ明日香村に存在する高松塚古墳でも、一九七二年に壁画が見つかっていたことは有名でしょう。こちらの壁画は、東・西・北璧に四神(朱雀を除く)、天井に天文図という構成で、キトラ古墳とも共通していますが、高松塚古墳壁画では男子像・女子像が描かれており、その遺存状況の良さから、20世紀における日本考古学史上の大発見と言われたほどでした。

壁画の取り外し作業(キトラ古墳)
■壁画の取り外し作業(キトラ古墳)
/文化庁

現在、二つの古墳の壁画は保存のため取り出され、一般公開されていますが、壁画への影響からその時期は限られています。そのため、今回の展示にも出品されるレプリカを作り、壁画の保存と公開という相反する目的を達成しようと努力されています。

(当館学芸員 加藤)



7.埴輪大集合
武人形埴輪(長原45号墳)
■写真1.武人形埴輪(長原45号墳)

今回の展示品にはあの「大魔神」をおもわせるような埴輪があります。それは平野区の長原古墳群のひとつである長原45号墳で発見された武人形埴輪です(写真1)。高さは73㎝、手足の表現はないものの、冑をかぶり、鎧(短甲と草摺)を身に付けた武人で、顔には入れ墨の表現があります。今回の特別展のポスターやホームページのトップにも登場する、まさにPR大使です。

ところで、長原古墳群では、船形埴輪に代表される高廻り1・2号墳の埴輪(国指定重要文化財)は言うまでもありませんが、それ以外にも多種多様な埴輪があります。たとえば、長原87号墳からは巫女(写真2)、馬(写真3)、鶏(写真4)の埴輪がまとまって出土しています。馬にはさまざまな飾りが付けられていて、墓の主が乗っていた飾り馬を再現したものかもしれません。写真5は長原40号墳で出土した盾形埴輪です。高さが130㎝もあり、圧巻です。写真6は船形埴輪です。半分しか残っていませんが、高廻り1号墳の船形埴輪によく似ています。

これ以外にも、当時の武具である冑・短甲・草摺や家など、当時の文化をうかがえるたくさんの埴輪が展示されています。埴輪は墓の主を送るための儀礼を再現したものと考えられていますが、そこには当時の造形美が結集されています。ひとつひとつじっくり眺めて、楽しんでください。

(当館学芸員 寺井)


巫女形埴輪(長原87号墳)
■写真2.巫女形埴輪(長原87号墳)
馬形埴輪(長原87号墳)
■写真3.馬形埴輪(長原87号墳)
馬形埴輪(長原87号墳)
■写真4.馬形埴輪(長原87号墳)

盾形埴輪(長原40号墳)
■写真5.盾形埴輪(長原40号墳)
船形埴輪(長原遺跡)
■写真6.船形埴輪(長原遺跡)

8.大阪に里帰りした文化財
伝四天王寺出土の銅経筒と出土経緯が記された木蓋(国立歴史民俗博物館所蔵)
■写真1.伝四天王寺出土の銅経筒と出土経緯が記された木蓋(国立歴史民俗博物館所蔵)

特別展の地域展の展示資料は、ここ30年間の大阪市内の発掘調査で出土したものが中心ですが、一部は大阪以外の博物館で保管されていて、今回特別にお借りしたものもあります。

例えば、「展示の見どころ」の第3話で紹介した銅鐸は、江戸時代に今の大阪市平野区で出土したものの、紆余曲折を経て京都国立博物館で所蔵されることとなりました。国立歴史民俗博物館所蔵で今回お借りしている伝四天王寺出土の銅経筒と伝天王寺区真法院町出土の無文銀銭も、江戸時代に偶然発見されたものです。銅経筒は平安時代の終わりごろのもので、本来はお経を収めて塚に埋められていたものです。これを収めた木箱の蓋の記載によると「文化二年(1805)」に「四天王寺の南東」で出たと記されています(写真1)。

また、住吉区二本松古墳出土資料は、明治44年(1911)に古墳が破壊された際に回収されたものの一部が東京国立博物館で所蔵されることとなりました。今回展示している二本松古墳出土の金銅製辻金具は、馬の顔をきらびやかに飾った金具で、今のところ類例は藤ノ木古墳でしか見当たりません。是非展示場でご覧下さい。

これらの資料はいずれも地元で文化財を保管する制度が十分整っていない時代に発見されたために、大阪を離れてしまったものです。

移動中に見えた東京スカイツリー
■写真2.移動中に見えた東京スカイツリー

こういった資料をお借りするために、1月5~7日にかけて、東京、佐倉、京都に行ってまいりました。まず、5日の午前中に東京国立博物館にて二本松古墳の資料をお借りした後、東京スカイツリー(写真2)を眺めながら、東京湾岸の高速道路で千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に向かいました。そこで銅経筒と無文銀銭をお借りし、その日はいったん東京に戻りました。6日は朝7時半に東京を出発し、美しい富士山を眺めながら西に向かい(写真3)、夕方5時頃に大阪歴史博物館に到着し、お借りした資料を収蔵室に納めました。7日には京都国立博物館で銅鐸をお借りし、大阪歴史博物館に運びました。

移動中に見えた富士山
■写真3.移動中に見えた富士山

いったん大阪を離れた文化財が、期間限定ではありますが、里帰りしました。いずれも近年の発掘調査では発見されない希少なもので、発掘資料で大阪市の通史を語る上では欠かせないものです。またとない機会ですので、是非ご覧ください。

(当館学芸員 寺井)

9.ヨーロッパとつながっていた近世大坂
オリーブ油容器
■写真1.オリーブ油容器
マジョリカ陶アルバレッロ
■写真2.マジョリカ陶アルバレッロ
ベネチアングラス破片
■写真3.ベネチアングラス破片
ポルトガル向けにつくられた青花大皿
■写真4.ポルトガル向けにつくられた青花大皿

豊臣秀吉によって大坂の城下町が建設されたころ、海外からの貿易船が数多く日本を訪れていました。その時代の大坂の近くには、国内でも最も有力な貿易港である堺がありました。また、ほどなく大坂にも直接、海外からの船がやってきたと考えられています。

そうした船によって、大坂にはさまざまな輸入品がもたらされました。大坂城下町の遺跡を発掘すると、そうした資料にめぐり合うことが少なくありません。その中には、遠くヨーロッパから運ばれてきた可能性のある資料も見つけることができます。

写真1は、高さ50cmほどの素焼きの壺です。バラバラの破片になって発見され、特徴的な模様などもなかったため、いったいどのような焼き物かわかりませんでした。破片をつなぎ合わせて、元の形がわかるようになりましたが、誰もが見たこともない形で、いよいよもって正体がわかりませんでした。

発見されて数年がたったのち、長崎で発掘をされている川口洋平さんにこの壺を見ていただいたところ、スペインやその植民地であったメキシコなどで使われていた、オリーブ油などを入れる容器によく似ていることを教えていただきました。長崎の発掘調査でも、これまでに2点見つかっていましたが、国内では他に知られておらず、日本で3番目の発見ということです。こうして正体不明の壺は、海外との交易を象徴する資料として脚光をあびることとなりました。

展覧会では、このほかにもヨーロッパからもたらされたマジョリカ陶器の壺(写真2)やベネチアングラスの破片(写真3)、本当はポルトガルに輸出されるはずだった中国製の染付磁器の皿(写真4)などを展示しています。これらを通じて、世界とつながっていた当時の大坂の空気を感じていただければと思います。

(当館学芸員 豆谷)

10.戦争と平和の考古学

考古学というと、はるか昔の時代を扱う学問だというイメージがあるかもしれませんが、最近では少し前の時代、近代の資料に注目することも多くなってきました。

汽車土瓶
■写真1.汽車土瓶

 写真1は「汽車土瓶」と呼んでいる、駅でお茶を売るための容器です。現在のJR大阪駅の少し南、堂島のビル街の中で発掘されました。「ひめぢ」の文字が書かれており、姫路駅で購入されたものであることがわかります。

江戸時代の人々が旅好きであったことが知られていますが、当時は歩くしか手段がありませんでした。それを大きく変えたのは鉄道の開通でした。明治7年(1874)、関西で初めて大阪~神戸間の鉄道が営業を開始し、明治21年(1888)には山陽鉄道の兵庫~姫路間が完成して姫路までの汽車旅ができるようになりました。また、開通間もない明治22年(1889)に、姫路駅では全国で初めて幕の内の駅弁を発売したとも言われています。この「汽車土瓶」は、駅弁とともに販売されたものであったのかもしれません。鉄道という新たな交通手段の登場により、より遠くまでの旅行を楽しめるようになった時代をうかがうことができます。

磁器製錘
■写真2.磁器製錘

一方、写真2は、磁器でできた天秤ばかりの錘です。第二次世界大戦の戦火が拡大し、資源の欠乏が深刻となり始める中で、金属製品を陶磁器で置き換えた「代用品」が生産されるようになりました。この資料もその一例で、昭和16年(1941)ごろから戦後しばらくの時期まで岐阜県で製造されていました。

この資料が出土したのは「くすりの町」として知られる船場・道修町の一角です。薬に関係して使われたかどうかは定かではありませんが、戦時下にあって何とか商売を続けていくために使われたものであったと考えられます。

これらの出土資料から、それぞれが使われていた時代背景を生々しく感じ取ることができるでしょう。

(当館学芸員 豆谷)

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