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岸和田の新聞

(H26.6.12更新)

平成23年12月7日(水)~ 平成24年3月26日(月)(予定)

「南海自由民報」第10号(大正14年11月17日付)
「南海自由民報」第10号(大正14年11月17日付)
本館蔵
この新聞が発行された大正14年(1925)に男子普通選挙法が成立し、普選は市会議員選挙にも適用されることになりました。岸和田市の第二回市議選は昭和2年(1927)1月に実施されましたが、この新聞では早くも「岸和田市議選挙予想」という見出しのもと、「新顔連が多く」激戦になると予想しています。実際、当選者30名のうち14名が新人でした。この市議選は関西初の普選ということで、大阪市を初め多数の都市から役人や議員が視察に訪れました。投票率は市が宣伝に力を入れた結果、9割を超える好成績でした。
「岸和田新聞」第62号(大正15年1月1日付)
「岸和田新聞」第62号(大正15年1月1日付)
本館蔵
大正15年(1926)の年頭にあたり、柳月生という記者の論説が掲載されています。内容は、当時岸和田市会で議論されていた都市計画についてで、同記者は「グレエト岸和田市」の建設のために、都市計画について市会で充分に議論するとともに、計画区域に含まれる周辺町村への影響も「研究」する必要があると主張しています。ここで記されている岸和田市の状況は、大正10年から第一次都市計画事業を開始し、同14年には第二次市域拡張を実現して「大大阪」と呼ばれるようになる大阪市とよく似ています。
「南海民友新聞」第79号(昭和6年7月10日付)
「南海民友新聞」第79号(昭和6年7月10日付)
本館蔵
この新聞の発行編輯兼印刷人である原徳太郎(原静村)は、第二回市議選で「労働階級の代表」として当選し、岸和田における社会運動の先駆者として知られています。この新聞では、生徒が教師に「盆暮の贈物」をすることを「階級維持の悪制度」として批判する論説を執筆しています。南海民友新聞は、南海鉄道沿線の「開発と聯絡のために」発行されたもので、毎号難波駅頭で1万部無料配布されたと記されています。南海からの多額の支援や広告料収入があったから、このような配布が可能だったのでしょうか。また、発行所の住所は先の「岸和田新聞」と同一でした。両紙の関係は不明です。
「泉州毎日新聞」夕刊第1412号(昭和12年1月1日付)
「泉州毎日新聞」夕刊第1412号(昭和12年1月1日付)
本館蔵
岸和田市では、昭和11年(1936)9月5日に川崎正一市長が辞任した後、約1年1ヶ月もの間市長が存在しませんでした。市会での政争が激しく、なかなか市長を決めることができなかったためです。この新聞には、後任についての観測記事が掲載されています。当時の市会議長覚野勝三郎を有力候補と報じていますが、覚野は市長にはなりませんでした。この間、大阪市社会部長をつとめた山口正も候補として名前があがりましたが、結局大阪府の強力な指導によって岸和田とはほとんど縁のない竹崎米吉が就任しました。就任を決めた昭和12年10月2日の市会での議論はわずか5分、満場一致でした。同年の廬溝橋ろこうきょう事件後、日中戦争が深刻化していくなかで、政争はゆるされない状況になっていたのです。

NHKの連続テレビ小説「カーネーション」を毎日楽しみにしている方、多いと思います。ドラマの舞台は大正の終わりから昭和初めの岸和田。尾野真千子さん演じるヒロインや小林薫さん演じる頑固者の父親が暮らしていた岸和田の街ってどんな感じだったのでしょうか?

明治以降、岸和田は紡績業などを中心に工業都市として発展しました。大正11年(1922)には岸和田市が誕生し、昭和3年(1928)からは急速な工業化に伴う諸問題を解決するために、都市計画事業が実施されます。岸和田市の歩みは、市歌に「陸には絶えぬ黒煙 港出で入る百の船」とあるように、「煙の都」あるいは「東洋のマンチェスター」などと言われた大阪のそれをみているようです。

大阪歴史博物館では、ドラマの設定と同じ時期に岸和田で発行された新聞をいくつも所蔵しています。今回は、その中から当館でしか見ることができない貴重な新聞ばかりを選んで、「カーネーション」時代の岸和田の一端をご紹介します。(飯田直樹)

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