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安政南海地震と安政江戸地震

(H27.1.15更新)

12月10日(水)~平成27年3月30(月)(予定)

嘉永7年11月4日(西暦1854年12月23日)午前8時ごろ遠州灘沖で東海地震が発生しました。さらに翌日午後4時ごろ紀伊半島沖で南海地震が発生しました。大坂では、地震そのものの被害もありましたが、むしろその後の津波による被害が甚大でした。津波によって流され破損した船は1,000艘以上、橋も10か所で落ちました。地震により船に避難していた人も多数遭難しました。一説には津波だけで1,500人もの人々が亡くなったと言われています。地震後の11月27日に「安政」に改元されたので、この地震は「安政南海地震」と呼ばれています。
 安政江戸地震は翌年10月2日(1855年11月11日)午後9時すぎに発生しました。被害状況は、江戸の町方だけで倒壊家屋14,346軒、死者4,293人とのデータがあります。火災も発生しました。地震後に「鯰絵」の出版が氾濫するという状況も生まれました。
 今回の展示では、安政南海地震による大阪での被害を伝える瓦版と安政江戸地震直後に発行された鯰絵を紹介します。

(飯田直樹)

大坂大地震つなみ一枚刷

地震津浪末代噺乃種(じしんつなみまつだいばなしのたね)

嘉永7年(1854) 本館蔵(羽間平安氏寄贈)
安政南海地震による被害状況をまとめて冊子体にしたものです。大坂では、この地震の時に堀や川に浮かぶ小舟に避難する人々がいました。この絵では、それらの人々が、津波で押し流されてきた大船によって、川に投げ出されたり、押しつぶされたりして、溺れている様子を描いています。
大坂大地震つなみ一枚刷

大坂大地震つなみ一枚刷

嘉永7年(1854) 本館蔵(村松茂氏寄贈)
安政南海地震による大坂での津波被害について絵図でまとめた瓦版。絵図は北が下になっており、水色で浸水地域(現在の大正・浪速・西の各区)を示す。津波によって安治川と木津川の河口に停泊中の大船が市中の堀川に入り込み、道頓堀などにかかる橋を壊して、多数の死傷者が出たことなども記している。
ぢしんほうぼうゆり状の事

ぢしんほうぼうゆり状の事

安政2年(1855) 本館蔵
奉公人請状という雇用契約書の形式をかりて作られた鯰絵です。これから雇われようとする鯰の「ゆり助」の身元を、「ぶるぶるやこわ右衛門」らが、「大坂町屋敷大つなみ打寄場」に住む「橋々屋おち右衛門」という雇い主に保証するという趣向になっています。大坂は、安政南海地震の津波によって多数の溺死者や落橋など大きな被害を受けました。ユーモラスなネーミングの背景には、このような被害の実態があったのです
フロア / 9階 コーナー / 大坂の幕末・維新コーナー
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