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南の大火と千日前

(H26.6.12更新)

平成24年1月16日(月)~ 2月13日(月)(予定)

南区大火地図
南区大火地図
明治45年(1912) 本館蔵(柴垣コレクション)
南の大火は明治45年1月16日におきた、南区難波新地(現中央区難波四丁目付近)を火元とする明治期大阪最後の大火です。焼失戸数は約5千戸で、死者は消防手2名を含む4名。場所柄から多くの活動写真館、寄席、貸座敷が焼失し、生玉神社や高津こうづ尋常小学校も被災しました。大火後、焼け跡を東西に走る広い電車通り(千日前通り)が開通し、現在のビックカメラの敷地に楽天地という大阪の新名所ができることになります。
大火前の千日前絵葉書
大火前の千日前絵葉書
明治43年(1910)頃 個人蔵
明治40年、大阪で最初の活動写真の常設館が千日前にできます。この絵葉書左側の「電気館」という看板がある建物がそれです。電気館は、向かいの建物ののぼりに名前のある大矢藤松が経営していました。この当時は第二電気館という活動写真館ができたので、「第一電気館」と改称しています。南の大火ではこの絵葉書の手前に写っている建物群は焼失してしまいます。
大火直後の千日前絵葉書
大火直後の千日前絵葉書
明治45年(1912) 本館蔵
大火前の絵葉書に写っていた電気館の焼け跡(今のビックカメラの場所)から北東方向を写したものです。この当時の絵葉書は報道メディアとしての機能を持っていました。手書きのキャプションが速報性・緊急性を物語っています。二つの煉瓦壁の間の空間が千日前筋で、煉瓦壁の北側にはかろうじて焼け残った建物が見えます。手前のがれき群にはこの後「焼跡線」と通称される電車通りが開通します。
大火後の千日前絵葉書
大火後の千日前絵葉書
大正3年(1914)頃 本館蔵
つい最近まで千日前には敷島しきしまシネポップという映画館がありました(今は名前が変わっています)。この映画館は大阪で最も古い歴史をもつ映画館で、この絵葉書の手前右側にも写っています。「新派 恋の焔」と書かれた幟のある建物、敷島倶楽部です。この絵葉書は、この建物の手前から南方向に千日前を写したものです。敷島倶楽部で「恋のほのお」という劇が上演されたのは大正3年8月のことですから、それ以後に発行されたものということになります。
楽天地絵葉書
楽天地絵葉書
大正中期 本館蔵
敷島倶楽部が写っている絵葉書が発行された頃(大正3年7月)、今のビックカメラの敷地に新しい名所が誕生します。楽天地です。劇場、演芸場、遊園地、水族館などがある複合娯楽施設でした。この絵葉書でも「一日遊んでも見切れん程」とあります。以後、千日前の絵葉書の多くは、楽天地が写すものにかわっていきます。昭和7年(1932)に楽天地の場所に、大阪歌舞伎座が開業するまで、千日前といえば楽天地というのが定番になります。

千日前は道頓堀、新世界とならぶ近代大阪を代表する歓楽街です。千日前が後二者と大きく異なるのは、極めて激しい変転を経験しているということです。その千日前の歴史のなかで大きな画期となったのが、今からちょうど100年前に起きた南の大火でした。この大火前後に千日前は活動写真(映画)の街へと変貌していきます。今回は大火前後に発行された絵葉書を中心に千日前の歴史を振り返りたいと思います。(飯田直樹)

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