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安政南海地震と安政江戸地震

(H28.12.7更新)

12月14日(水)~平成29年3月27日(月)(予定)

嘉永7年11月4日(西暦1854年12月23日)午前8時ごろ遠州灘沖で東海地震が発生しました。さらに翌日午後4時ごろ紀伊半島沖で南海地震が発生しました。大坂では、地震そのものの被害もありましたが、むしろその後の津波による被害が甚大でした。津波によって流され破損した船は1,000艘以上、橋も10か所で落ちました。地震により船に避難していた人も多数遭難しました。一説には津波だけで1,500人もの人々が亡くなったと言われています。地震後の11月27日に「安政」に改元されたので、この地震は「安政南海地震」と呼ばれています。
 安政江戸地震は翌年10月2日(1855年11月11日)午後9時すぎに発生しました。被害状況は、江戸の町方だけで倒壊家屋14,346軒、死者4,293人とのデータがあります。火災も発生しました。地震後に「鯰絵」の出版が氾濫するという状況も生まれました。
 今回の展示では、安政南海地震の被害を後世に伝えるために建てられた大地震両川口津浪記という石碑に関する史料と安政江戸地震直後に発行された鯰絵を紹介します。

(飯田直樹)

ぢしんほうぼうゆり状の事

ぢしんほうぼうゆり状の事

安政2年(1855) 本館蔵
奉公人請状という雇用契約書の形式をかりて作られた鯰絵です。これから雇われようとする鯰の「ゆり助」の身元を、「ぶるぶるやこわ右衛門」らが、「大坂町屋敷大つなみ打寄場」に住む「橋々屋おち右衛門」という雇い主に保証するという趣向になっています。大坂は、安政南海地震の津波によって多数の溺死者や落橋など大きな被害を受けました。ユーモラスなネーミングの背景には、このような被害の実態があったのです。
『山海里(さんかいり)』第12 篇巻之中

『山海里(さんかいり)』第12 篇巻之中 

安政5年(1858) 本館蔵
浪速区幸町3 丁目の、大正橋東詰に大地震両川口津浪記というよく知られた石碑があります。安政南海地震による犠牲者供養と教訓を後生に伝えるために地震の翌年に建てられたものです。地震後、人々は堀や川に浮かぶ小舟に避難していましたが、津波によって河口からさかのぼってきた大船に押しつぶされるなどして、多数の死者がでました。実は、宝永4 年(1707)の宝永地震の際にも同様の悲劇があったため、二度と繰り返さないことを願って建てられたのです。石碑に刻まれた文章の作者は、京都大行寺の開祖信暁(しんぎょう。1774-1858)という僧でした。信暁は博覧多識で知られ、『山海里』という、世の中の様々な事象について経などの記述を紹介しながら解説した書物を著しています。石碑の文章とほぼ同文が、この山海里にも掲載されています。
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