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大阪相撲ゆかりの人と建物

(H26.6.10更新)

平成25年3月11日(月)~ 3月24日(日)(予定)

朝日嶽留蔵大関昇進記念相撲案内
朝日嶽留蔵あさひだけとめぞう大関昇進記念相撲案内
大正10年(1921) 本館蔵(竹森章氏寄贈)
朝日嶽(1889-1974)は、大正期大阪相撲の強豪力士の一人です。大正10年1月場所で大関に昇進すると、同年2月27日に故郷である兵庫県宍粟郡波賀町(現宍粟市)で大関昇進記念の相撲を開催しました。この案内には、この相撲の番付と朝日嶽の口上書が印刷されています。炭焼き業の家庭に生まれた朝日嶽は、小学生の頃から木炭の搬出作業に従事し、15歳時には木炭六俵(約112kg)を一人で背負って運び出せたという逸話が残っています。今回の展示では、朝日嶽の大関昇進記念写真や宍粟市に残る記念碑なども紹介します。
八陣調五郎
八陣調五郎はちじんちょうごろう
出典:『相撲彙報 古き歴史の大阪相撲』(大正12年) 本館蔵(柴垣和夫氏寄贈)
八陣(1865-1924)は、少年時代、鳴尾の酒造業・辰馬半右衛門の丁稚として働いていましたが、明治13年(1880)大阪相撲の小野川部屋に入門、当初は辰鱗萬太郎と名乗ります。26年11月場所で関脇昇進と同時に八陣を襲名。この場所を7戦土つかずで終えると、翌年4月には大関に昇進し、大阪相撲の第一人者となります。29年に大阪角力協会は、「相撲の家元」吉田つかさ家に横綱免許を申請しますが、拒否されたため、30年 9月、福岡にある神理教という宗教団体から免許を受けました。司家免許の横綱でないため、現在の相撲協会も横綱として認めていません。いわば「歴史から消された」横綱です。今回の展示では、八陣のように大阪相撲で横綱となった力士達を紹介します。
大正時代の藤島部屋
大正時代の藤島部屋
大正8年(1919)頃 本館蔵(佐藤亥三男氏寄贈)
藤島部屋は、うつぼ干鰯ほしか市場と関係の深い靱部屋から派生した相撲部屋の一つで、大正時代には大阪市南区高津町(現中央区高津)にありました。この写真は、大正8年9月に行われた東西合併相撲時の部屋を撮影したものと考えられています。藤島の名跡は、昭和2年(1927)に大阪相撲と東京相撲が合併する際、いったん廃絶しましたが、昭和17年に「大島」と改称されて現在に至っています。今回の展示では、平成20年にパネル展示で紹介した藤島部屋の別の写真についても紹介します。
大阪大国技館3階売店
大阪大国技館3階売店
昭和12年(1937) 本館蔵(三枝濱子氏寄贈)
大阪大国技館は、昭和12年6月に旭区関目(現城東区古市2丁目)に完成しました。鉄筋コンクリート造4階建、収容人数2万5千人と、これまでの「国技館」の中で最大でした。この写真は、竣工直後に開催された竣工記念大場所時の大阪大国技館内売店を撮影した大変珍しいものです。この大場所は、新横綱双葉山と新国技館見たさの客で大変にぎわいました。売店の売り上げも相当なものだったと推測されます。今回の展示では、昨年、パネル展示で紹介した国技館の写真についても紹介します。

大相撲3月場所開催に合わせて、大阪相撲ゆかりの人物と建築にスポットをあてて、紹介します。大阪には、江戸時代から相撲を職業とするプロの力士集団=大阪相撲が存在し、この大阪相撲と東京相撲が昭和2年(1927)に合併して、現在の相撲協会が設立されました。当館では何度も大阪相撲に関する展示をしてきましたが、今回は、近年収蔵した新出資料など、これまでに展示したことがない資料も含めて写真パネルでご紹介します。ご期待ください。(飯田直樹)

フロア / 7階 コーナー / 写真パネルコーナー
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